人々を街へ向かわせた出来事
韓国の民主主義を伝える写真には、多くの人が写っている。道路を埋める学生、ろうそくを掲げる家族、コンサートの応援棒を振る市民。写真だけを見ると、大勢が集まって大統領を交代させた歴史のようにも見える。しかし、人々が抗議した出来事はそれぞれ違う。選挙が操作され、取り調べを受けた学生が死亡し、国家機関がその死の経緯を隠し、大統領が国会へ軍を送った。群衆の大きさより先に、その人々を集めた行為を知る必要がある。
1960年の4月革命、1980年の光州、1987年の6月抗争、2016~2017年のろうそく集会と弾劾、2024年の戒厳とその後の事件は、同じことを世代ごとに繰り返した歴史ではない。公正な選挙を求める抗議が政権退陣の要求に変わり、大学の怒りが職場や都市へ広がり、街頭の要求が国会の採決と裁判所の判断に結びついた。その間には犠牲も失敗もあった。韓国の場所をたどるとき、ここでは道路、議場、取調室、裁判所が具体的な事件の舞台になる。
1960年、不正な投票と馬山の学生
1960年3月15日、韓国では大統領と副大統領を選ぶ選挙が行われた。李承晩大統領と与党の自由党は権力を維持しようとした。不正は開票後の数字の変更にとどまらない。国家記録院が紹介する秘密指令には、投票箱にあらかじめ票を入れる方法、数人の組で投票して記入内容を確認させる公開投票、野党の立会人を排除する方法が記されている。他人が誰への投票か確認できれば、投票用紙を渡されても自由に選べない。立会人がいなければ、その選択が正しく数えられたかを確認する機会も失われる。
馬山では選挙当日から不正への抗議が起こり、警察の鎮圧によって死傷者が出た。その際に行方不明となった学生、金朱烈の遺体が4月11日に海から見つかった。目に催涙弾が刺さっていたという事実が学生や市民に伝わった。選挙をやり直せという要求に、なぜ人が死に、警察は何をしたのかという責任追及が加わった。行方不明だった一人の学生が、再び街頭の抗議の中心になった。
怒りはソウルの大学や各地の都市へ広がる。4月18日、高麗大学の学生たちが抗議を終えて大学に戻る途中、政治暴力団に襲われた。集会を終えた後にも安全に帰れなかったことが、翌日の抗議を大きくした。選挙への批判に再び暴力が加えられると、問題は一つの投票所の不正だけでなく、政権が批判者をどう扱うかに及んだ。
4月19日の発砲と26日の退陣表明
4月19日、ソウルでは大学生、中高生、市民が街に出た。当時の大統領官邸だった景武台へ向かう抗議に、警察が発砲した。他の都市でも抗議と発砲が起きた。政府は戒厳を宣布したが、多くの死傷者を出した責任を問う声は収まらなかった。政権を維持するための選挙が、その政権の正当性を失わせる事件となった。
4月25日には大学教授たちも街へ出た。258人の教授が時局宣言に署名し、不正選挙の責任と政権退陣を要求する行進に学生や市民が加わった。政権は一部の人物を辞任させるなどして事態の収拾を図ったが、要求は大統領自身の責任へ向かった。翌26日、李承晩は大統領職を退くと表明した。公正な選挙を求める運動が独裁政権の退陣に達するまでに、参加者は発砲や逮捕を経験していた。
その後の政治的な機会は長く保たれなかった。1961年5月16日の軍事クーデターで第二共和国は崩壊した。市民が大統領を退陣させる経験を得ても、翌年の軍による権力掌握は防げなかった。4月革命は、行動によって権力を変えられるという経験と、新しい秩序を維持する難しさを同時に残した。一度得た権利が自動的に保存されるわけではない。
1980年の光州、大学前から都市全体へ
1980年春には民主化を求める動きが続いた。しかし5月17日、非常戒厳が全国へ拡大された。翌18日、全南大学の前で学生と空挺部隊が衝突した。学生は大学に入れない状況に抗議した。軍の暴力的な鎮圧は校門の前にとどまらず、街中で殴打や連行を見た市民も抗議に加わった。
20日にはタクシーやバスなどの車両を先頭にした抗議も行われた。学生の運動を離れた場所から見る都市ではなく、仕事でその道路を通る人々も参加する抗争へ変わった。錦南路や全羅南道庁前は人々が集まる中心となる。21日、道庁前で集団発砲が起き、市民が武装するに至った。武器を持つ市民軍の写真だけでは、その前に軍の暴力と発砲によって人々が死傷した過程が抜け落ちる。
戒厳軍が中心部から撤退すると、道庁には市民と学生による収拾の組織ができた。負傷者を世話し、食料を分け、連行された人の釈放や事態収拾を求めて戒厳当局との交渉を試みた。被害をどう抑えるかについて、市民の間でも選択は分かれた。武器を返して交渉すべきだという立場と、最後まで抵抗すべきだという立場が対立する。支え合っている群衆にも、次に何をするか決めなければならない時間があった。
27日未明、戒厳軍は道庁などの主要拠点に進入して抗争を鎮圧した。それでも家族は死傷者の行方を探し、生存者は連行、取り調べ、烙印や沈黙を強いられた。記録を残して真相を明らかにしようとする活動が長く続いたのは、過去の戦闘を思い出すためだけではない。国家による暴力と被害を公的に認めさせ、責任を問うためだった。

1987年、取調室の死が全国の要求になる
1987年1月14日、ソウル大学の学生、朴鍾哲がソウル南営洞の対共捜査施設で警察の取り調べを受けて死亡した。警察は指名手配中の先輩学生の所在を聞き出そうとし、水責めを行った。最初に発表された死因の説明は、その拷問を隠すものだった。解剖、報道、関係者の証言と告発によって説明が崩れた。市民が直面したのは暴力だけでなく、その機関が事実を隠そうとする行為でもあった。
追悼と真相究明の要求が続く中、全斗煥政権は4月13日、現行憲法を維持すると発表した。この「護憲措置」は大統領直接選挙の要求を拒み、間接選挙による権力移行を続ける方針だった。責任を問う市民に対し、次の大統領を直接選ぶ機会も開かないという回答が重なった。拷問事件への抗議と選挙制度の変更要求がつながった。
5月にはカトリック正義具現司祭団が朴鍾哲事件の縮小・隠蔽を告発した。6月9日には延世大学の学生、李韓烈がデモ中に警察の催涙弾を頭に受け、重体となった。彼が倒れた場面は、別の学生の死が目前に迫っている現実を示した。李韓烈は7月5日に亡くなった。6月抗争は、一人の死への抗議であるとともに、目の前の負傷者を救いたいという要求の中で進んだ。
聖堂の籠城から直接選挙への改憲
6月10日、全国で事件隠蔽を糾弾し、護憲撤廃を求める集会が開かれた。明洞聖堂の籠城は人々が集まり続ける拠点になった。周囲から水、食料、薬品が届けられ、会社員は昼休みや退勤後に街へ出た。その姿は「ネクタイ部隊」と呼ばれた。大学で組織された運動が、大学の外にいる人々の時間と場所を得て広がった。
ソウルだけの出来事でもない。釜山のカトリックセンター、仁川の駅や工業地域周辺でも集会や籠城が続いた。仕事を終えて参加した人々は、その後、自分の職場の賃金、労働時間、労働組合の権利も要求した。大統領の選び方は重要な目標だったが、集団で発言する経験は日常の交渉の問題にもつながった。
6月29日、与党の盧泰愚は大統領直接選挙などを受け入れると宣言した。その後に憲法が改正され、12月に直接選挙が実施された。市民が自ら大統領を選べるようになったことは大きな変化だった。ただし当選者は盧泰愚であり、軍事政権と無関係の大統領がただちに選ばれたわけではない。制度の入口が開くことと、そこで誰が選ばれるかは別の政治過程だった。権力を選び、再び責任を問う通路が広がった年として、1987年は残った。
2016~2017年、私的な介入とろうそく、弾劾
2016年、朴槿恵政権では公職にない崔瑞元、当時は崔順実として知られた人物による国政介入と私益追求が明らかになった。憲法裁判所は、大統領への報告文書が渡され、その人物が意見を述べ、内容を修正し、人事や財団運営に関与した事実を審理した。大統領が私的な助言を聞いたというだけの問題ではない。公式の責任や監督を受けない人が、国家の情報と権限を利用できたのかが問われた。
ろうそく集会には大統領の責任と退陣を求める人々が集まり、家族や異なる世代の参加者が同じ写真に写った。国会は2016年12月9日、弾劾訴追案を可決した。大統領の権限行使は停止され、憲法裁判所で罷免の可否を判断する審理が始まった。市民の要求と、それを扱う国会・裁判所の手続きが並んで進むことになった。
審理では金銭と組織の動きも確認された。ミルとKスポーツ財団は企業の出資で設立されたが、主な運営の決定をしたのは出資企業ではなく大統領と崔瑞元だった。崔瑞元は自分の広告会社と財団との契約を結ばせた。大統領の指示を受けた補佐官が、企業に特定人の採用や取引を要求した例も審理された。公的な事業を支える名目で集めた資金と大統領の影響力が、私的な利益への通路になった。裁判所は企業の財産権と経営の自由の侵害、公正な職務遂行義務への違反を認定した。
事実を隠す行為も重要だった。介入を否認して情報を隠せば、国会による調査や報道機関の監視の機会が減る。裁判所は違反が任期を通じて続き、対応にも憲法を守って再発を防ぐ意思を認めにくいと判断した。政策一つの成否を評する審理ではなく、権限の私的利用と監視の遮断が憲法秩序に及ぼした影響を判断する審理だった。
すべての訴追理由が認められたわけではない。公務員人事や報道機関への圧力に関する一部の主張には、大統領の関与や私益との結びつきを証明する証拠が足りないとされた。セウォル号惨事についても、法廷意見は誠実な職務遂行という抽象的義務だけで罷免を判断するのは難しいとした。二人の裁判官は補足意見で不誠実な対応を指摘したが、それだけでは罷免理由を構成しにくいと説明した。惨事の責任をめぐる社会的批判を解消したのではなく、その弾劾審判で大統領職を終わらせる法的基準を示した判断だった。
2017年3月10日、憲法裁判所は朴槿恵を罷免した。集会が法的判断に取って代わったわけではないが、責任を問う要求が公的手続きを通じて大統領職の終了に達した。その後の選挙と刑事裁判は、再びそれぞれの手続きで進んだ。2024年12月の戒厳は、こうした統制の仕組みが再び実際に働かなければならない状況を生んだ。
2024年12月3日、政治の日常に軍の権限が入る
2024年12月3日夜、尹錫悦大統領はテレビ演説で非常戒厳を宣布した。憲法裁判所の記録では宣布は午後10時27分頃とされる。大統領は野党による弾劾の推進や予算削減を挙げ、国政がまひしていると説明した。それは宣布した本人の理由であり、憲法が要求する非常事態に当たったかは、後に裁判所が別に判断した問題である。
韓国憲法第77条は、戦時、事変またはそれに準じる国家非常事態で、軍事上の必要に対処するか公共の安全と秩序を維持する必要がある場合に戒厳を認める。政治的対立を早く片づけるための日常的な権限ではない。通常は政党への参加、集会、政府批判を軍司令部の許可によって行うわけではない。その民政の秩序に軍の権限を入れようとしたことが、この宣布の衝撃だった。
戒厳司令官となった陸軍参謀総長の朴安洙は布告令第1号を発した。国会、地方議会、政党の活動を含む政治活動を禁止し、報道・出版を戒厳司令部の統制下に置く内容だった。戒厳解除を要求できる国会まで禁止対象に含まれた。非常権限を止めるための機関が、その非常権限で活動を禁じられるという衝突があった。
布告令には適用時刻が午後11時と書かれているが、憲法裁判所は実際の発令を午後11時23分頃と記録した。宣布の決定にも統制の欠落があった。国務委員が集まっただけでは実質的な閣議審議になっておらず、宣布文には首相と関係閣僚の副署もなく、国会への正式な通知も行われなかったと認定された。大臣が検討して責任を確認し、国会が解除要求を出せるようにする手続きが抜けていた。
国会、採決できる場所を守る
憲法第77条第5項は、国会の在籍議員の過半数が戒厳解除を要求すれば、大統領は解除しなければならないと定める。ただし議員が議場に入り、意思決定できなければ、その規定は動かない。宣布後には国会へのアクセスが、憲法上の権限を行使できるかどうかの現実的な問題になった。
憲法裁判所の認定には部隊の移動と指示が具体的に記されている。第707特殊任務団の97人がヘリコプターで国会に出動した。そのうち16人は12月4日午前0時33分頃、本館右側の窓二枚を割って建物内に入った。第1空挺旅団も敷地内に進入した。国会職員や議員の補佐官は備品を積み、消火器を噴射し、身体で部隊の移動を止めた。その過程で負傷者が出て、建物や設備も損傷した。
大統領は午前0時30分頃、特殊戦司令官に電話し、議決定足数がまだ満たされていないようだとして、扉を壊して中の人を引きずり出すよう指示したと裁判所は認定した。尹錫悦は指示を否認したが、裁判所は議員が本会議場に集まっていた状況、指揮官の証言、部隊の会議中に開いたマイクから伝わった発言などを検討し、その否認を受け入れなかった。採決する人数を物理的に減らそうとした行為として判断された。
部隊は本会議場に入れなかった。廊下や入口で進入を止める行動が、議員の集まる時間を確保した。特殊戦司令官は解除要求案の可決を確認した後、任務中止と撤退を命じた。国会が戒厳を統制するという条文は、採決を終えられる部屋を現場で守ることと結びついた。
午前1時2分頃、国会は非常戒厳の解除要求決議を可決した。出席議員190人全員が賛成した。これは単なる反対意見の表明ではなく、大統領に解除の義務を生じさせる決議だった。大統領の解除表明は午前4時20分頃、その後の閣議による解除決定は午前4時29分頃に行われた。採決、表明、閣議決定は順番のある別々の段階だった。


解除後、二度の弾劾採決
戒厳が解除されても、宣布や軍の投入の責任は消えなかった。弾劾手続きは職務上の憲法・法律違反が罷免に値するほど重大かを問う。刑事捜査と裁判は個別の行為が犯罪の要件を満たすか、どの刑罰に値するかを問う。同じ出来事から始まっても、目的と判断基準は異なる。
最初の弾劾訴追案は12月7日、議決定足数に達しなかった。大統領の弾劾訴追には在籍議員の3分の2以上、当時の300議席なら200人以上の賛成が必要だった。与党議員の大半が参加せず、最初の投票は成立しなかった。戒厳の解除も市民の強い要求も、それ自体で国会の可決要件をなくすものではない。
12月14日、二度目の訴追案は300人中204人の賛成で可決され、大統領の権限行使が停止された。この時点で最終的な罷免が決まったわけではない。国会の訴追後、憲法裁判所がその理由を審理する。国会前の大規模な集会や応援棒は社会的な場面であり、採決と審判は各機関の権限による手続きだった。
漢南洞、令状があっても執行できない
捜査では大統領を取り調べるための身柄確保が問題となった。2025年1月3日、高位公職者犯罪捜査処、略称「公捜処」と警察が、ソウル漢南洞の大統領公邸で逮捕令状を執行しようとした。しかし警護処側が阻み、対峙の末に執行が中止された。裁判所による発付と、現場での執行可能性の間に隔たりが現れた。
大統領の安全を守る警護は、刑事捜査を支配する権限とは違う。尹錫悦側は公捜処の捜査権限や令状の適法性を争い、捜査機関は裁判所の令状を執行しようとした。法的な対立は公邸への立入り、人員の配置、捜査官の移動をめぐる物理的な対峙となった。
後の刑事裁判では、警護処の人員と資源を使った車両の障壁、人間のスクラム、捜査官への有形力が扱われた。最初の失敗後にも、次の執行を阻むための鉄条網や車両障壁、スクラム訓練、威力を示す巡回が行われた。大法院は、令状執行の妨害を目的にこれらを行わせたことは正当な警護ではないとする原審判断を維持した。
捜査権限への異議も判断された。大法院は、大統領の在職中の不訴追特権があらゆる捜査まで禁じるわけではないとした。この事件では公捜処が権限内の職権濫用を実際に捜査し、直接関連する内乱の疑いを認知していた。そのため公捜処法の関連犯罪捜査の範囲に入ると判断された。どの犯罪でも自由に捜査できるという一般論ではなく、実際に調べた犯罪と関連性についての結論だった。
軍事上の秘密がある場所だから捜索に同意しないという主張にも、無制限の拒否権は認められなかった。国家の重大な利益を害する恐れについて、具体的・客観的な理由が必要とされた。この事件では警護処長がそうした理由を示しておらず、重大な利益への危険も認められないため、拒否は不適法で捜索令状の執行は適法とする判断が維持された。
逮捕妨害などの別事件は、一審の懲役5年、控訴審の懲役7年を経て、2026年7月9日に大法院で確定した。被告人と特別検察官の上告はいずれも棄却された。ただし起訴内容すべてが有罪になったのではない。虚偽の戒厳宣布文の作成と、その文書を行使したという罪では判断が分かれ、引き出しに保管しただけでは行使といえないとする無罪判断が維持された。大きな有罪見出しの中でも個別の行為は区別された。

雪の中の「キセス団」
最初の逮捕令状執行が失敗した後、弾劾を要求する市民は漢南洞の公邸周辺で集会を続けた。1月4日夜から5日未明にかけて、参加者は雪と寒さの中で銀色の保温シートをまとい、その場に残った。丸く包まれた姿がアルミ包装のハーシーズ・キスチョコレートを思わせるとして、「キセス・デモ隊」「キセス団」という呼称が広がった。正式な単一組織の名称ではなく、その場の人々を表す呼び名である。
何時間も夜通し留まるためには、体温を保つシート、食べ物、休める場所が必要だった。当時の報道は近隣の休憩場所や、市民から送られた食事も伝えている。道路に座る人だけでなく、物資や場所を提供する人々が集会を支えていた。Kカルチャーのコンサートで使う応援棒が視覚的な象徴になった一方、保温シートはその場に居続けるための道具だった。
雪は舞台の背景ではなく、参加者が耐える環境だった。令状が執行されない間に時間が過ぎれば、捜査も遅れる。公邸近くに残る行動は執行を要求し続け、見守るためのものだった。シートをかける人、温かい食事を送る人、休憩場所を開く人の行動が、要求を翌日までつないだ。銀色の印象的な写真には、夜を越すための労働とケアも含まれている。
1月15日の逮捕、次に必要だった審査
2025年1月15日午前10時33分、公捜処と警察による二度目の執行で尹錫悦が逮捕された。最初の試みが止まってから12日後だった。捜査機関が身柄を確保したことであり、逮捕の瞬間にすべての嫌疑の有罪が決まったのではない。
逮捕と、その後も身柄を拘束するための令状も異なる手続きだった。一定期間の逮捕後に拘束を続けるには、必要性と要件を改めて審査する。ソウル西部地方法院では1月18日に拘束前の被疑者審問が行われ、19日未明に拘束令状の発付が伝えられた。15日の逮捕、18日の審問、19日の発付は別々の段階である。
同時期には憲法裁判所の弾劾審判も進んでいた。大統領職を維持できるかを問う審判と、犯罪の疑いを調べる手続きが並行した。罷免は刑事有罪判決そのものではなく、逮捕されたからといって弾劾審判が省略されるわけでもない。同じ人物に関するニュースの中で、各機関は異なる問いを扱っていた。
1月19日、裁判所が襲撃された
拘束令状の発付が伝わった1月19日未明、一部の尹錫悦支持者がソウル西部地方法院に侵入し、設備を破壊した。公邸での執行妨害とも、弾劾を求める集会とも別の事件である。直接のきっかけは拘束令状だった。受け入れられない判断を下した裁判所の建物と、そこで働く人々の業務が攻撃された。
裁判所の判断は批判でき、当事者は法定の手続きで争える。それでも設備を壊し、執務室に侵入して人を脅す行為は、反対意見の強さだけでは正当化できない。また、裁判所周辺の集会にいたというだけですべての参加者を襲撃の加担者とすることもできない。刑事責任は具体的な行為と証拠で判断される。
対峙は発付前から始まっていた。18日の審問中に支持者が集まり、夜には一部が裏門を越えようとした。審問を終えて帰る公捜処職員の車両を止める行為も起きた。後に大法院が確定した事件には、車両前方で窓をたたき、後方では人間のスクラムで後退を妨げた行為が記されている。仕事を終えた職員が現場を離れられなかった。
裁判所内の経過は、翌日の国会報告から詳しくたどれる。1月20日、千大燁法院行政処長は、午前2時53分ごろ公捜処が令状実物と記録を受け取り、2時59分ごろ裁判所が発付を知らせ、3時ごろ報道が続いたと説明した。初期報告では警察の阻止線を突破して敷地へ入ったのが3時7分ごろ、正面入口や窓を壊して建物内へ入ったのが3時21分ごろだ。これは翌日の報告の時刻で、後の白書や個別判決が示す細かな場所・時刻とは区別する。発付の発表、敷地への侵入、建物内への侵入は、一瞬の出来事ではなく段階を踏んだ。
当直室は夜間の令状業務を担う場所だが、その夜は侵入を防ぎ身を隠す場所にもなった。裵亨元法院行政処次長は、職員が自動販売機を動かして入口を塞いだものの、当直室の窓が破られ人が入ってきて上階へ避難したと報告した。監視カメラ設備の損傷と復旧作業も説明している。後の白書は職員2人と負傷した警察官1人が宿直用の休憩室へ避難した状況を記録している。入口を守ることと室内の人を守ることが同時に進んだ。単なる器物損壊という言葉では、業務設備の損傷と人々の避難が同じ危険の中で続いたことが見えにくくなる。
避難は屋上へ上がる一度の移動で終わらなかった。国会会議録5ページの経過報告には、職員が屋上の入口に椅子などを置いて再侵入に備えたことが記されている。その後、再び入ってくる人がいる可能性を考え、地下2階の設備室へ移って建物外の状況が落ち着くのを待った。屋上と地下は建築図面の位置であるだけでなく、身体を守り、次の移動を判断する場所だった。この記録は、裁判所が無人だった、危険は外だけにあったという読み方を否定する。
一部は裁判官執務室のある7階まで上がった。千処長の報告は令状を出した裁判官を捜す人とその執務室の損傷を説明し、その後確定した事件の判決には、扉を蹴って施錠装置を壊し室内を捜す行為が記録されている。当時の報告者の推測を、全員の事前計画が証明されたという事実に変えてはならない。初期国会報告では3時32分ごろ警察が内部で制圧と逮捕を始め、5時15分ごろ建物内の侵入者を退去させた。外の対峙は続き、7時28分ごろ大半が解散したと報告されている。内部の確保と周囲の鎮静も別の時点だった。
翌日、裁判と窓口業務を再開したことは、被害がすべて回復したという宣言ではない。千処長は1月20日の国会で、人員と施設を支援して当日の業務を進めていると報告した。午後には心理的な衝撃を訴える職員がいて、継続したケアを準備していると説明した。質疑は迅速な再開と職員の回復を両立できるかも問うた。窓・扉・コンピューター・監視や入退室設備を整えること、利用者に対応すること、脅威を経験した人が安心を取り戻すことは同じ速度では進まない。扉を開くことと事件が終わることの間には、この距離が残る。
2026年4月30日、大法院は事件2026ド999で、侵入、公務執行妨害、車内の職員の監禁、設備損壊などに関する原審判断を確定した。この裁判の被告人には実刑、執行猶予、罰金という異なる結果があった。集会参加を一括して処罰するのでなく、どこまで入り、何をしたかを判断した。集団の威力を利用した侵入と個人の建造物侵入も区別された。一つの事件の確定で、襲撃に関するすべての裁判が終わったわけではない。
修復費には民事手続きが続いた。大法院の発表によれば、2026年8月26日、有罪が確定した加担者5人を相手に、約11億7590万ウォンの復旧費と遅延損害金を求める訴えが提起された。これは請求額であり、支払い済みでも賠償判決で確定済みでもない。白書の初期被害推計とは対象や算定時点が異なる。侵入者を排除した後も、公的施設を直し、その費用の負担を定める仕事が残った。
国会への軍の進入と法院襲撃は、行為者も法的事件も異なる。それでも、自分に不利な判断をする機関を物理的に止めてよいのかという問題は共通していると本稿は考える。国会の採決や裁判所の令状審査は、その結論に賛成する人のためだけに存在するものではない。人を脅さず判断を争えるはずの場所が攻撃されたことが、損傷した窓の価格を超える問題だった。
4月4日の罷免と続く刑事裁判
2025年4月4日、憲法裁判所は尹錫悦を罷免した。決定文は宣告時刻を午前11時22分と記す。戒厳の宣布とその後の行為が憲法や法律に照らして審査された。高度な統治行為だという主張でも司法審査を避けられず、非常権限も発動条件と統制に従わなければならなかった。
尹錫悦は、戒厳は野党の行為を国民に知らせる警告で、すぐ解除したので違反は重大ではないと主張した。裁判所は認めなかった。布告令が政治活動や基本権を制限し、軍が国会の権限行使を妨げた時点で憲法秩序は侵害されたと判断した。解除要求を採決できたのも、大統領が国会の自由を保障したためではなく、市民の抵抗と軍警の消極的な任務遂行によると説明した。解除に応じても先の違反は消えなかった。
軍は中央選挙管理委員会にも投入された。裁判所は、不正選挙の疑いを解消するという理由で庁舎を占拠し、情報システムなどを押収・捜索させたことが委員会の独立性を侵害したと判断した。国会の採決への妨害、選挙管理機関への軍の介入、政治表現の禁止は、それぞれ別の機関と権利に影響した。総合して、大統領に権限を維持させる危険より、罷免によって憲法を守る利益が大きいとされた。
大統領の欠位による選挙と政権移行が続く間にも捜査と裁判は進んだ。2026年2月19日、ソウル中央地方法院刑事合議25部は内乱首魁と職権濫用権利行使妨害の一審で、尹錫悦に無期懲役を言い渡した。同じ裁判でも各被告人の役割と証拠によって、有罪・無罪や量刑は異なった。
一審は、憲法を守る責務を持つ大統領が、非常事態でない状況で戒厳を宣布し、軍と警察を通じて国会を封鎖しようとしたことを重く評価した。軍警の政治的中立性への損害、命令の適法性を疑わなければならない部下の立場、大統領選挙の再実施や大規模な捜査・裁判などの社会的費用も量刑理由に含めた。他方、期間が比較的短く、現場で武力が抑制されて致命的な負傷者がなく、複数の計画が実行に達しなかった事情も考慮した。目的が達成されなかったことだけで責任をなくしたわけではない。
この本案は2026年10月時点でも控訴審が進行中である。一審の無期懲役を確定刑と書くことはできない。逮捕妨害などの別事件の懲役7年は、7月に大法院で確定した。同じ戒厳から生じた事件でも、起訴された行為と裁判の段階は違う。大統領職が終了した後も、各裁判所は個別の責任を判断し続けている。
採決する部屋と令状を執行する入口
1960年には投票用紙があっても、他人に選択を確認される仕組みがあった。1987年には大統領を直接選べず、警察の取調室で起きたことを市民が改めて明らかにしなければならなかった。2024年には直接選挙と戒厳を解除させる国会の権限があっても、議員が議場に着くまで軍の進入を止める必要があった。権利を妨げる方法も、その回復のための行動も時代ごとに変わった。
公邸では令状を執行する入口が阻まれ、法院では令状を審査した執務空間が攻撃された。漢南洞の参加者が夜を越すときには、保温シート、食事、休憩場所を用意する人がいた。法院では避難した職員が戻り、壊れた機器の影響を受けながら仕事を続けた。大きな結論の下には、決めることと決定を実行することを可能にする場所や人々を守る仕事があった。
こうした過程が大統領の罷免や裁判所の判断に達したことは、韓国民主主義の重要な成果である。同時に、4月革命後のクーデターと民主化後の戒厳は、得た権利が再び脅かされることを示している。不利な判断は法律によって争え、だからといって他人の投票、捜査、裁判を力で止めることはできない。その条件を保つ仕事は、次の集会や選挙までの間にも続く。
投票、捜査、裁判が実行できる場所を守ることも民主主義の仕事です。韓国の事件史には、その条件を得て、維持し、再び脅かされた過程が残っています。
出典と対象範囲
韓国民主化の歩み:1960年 ↗四月革命期の民主化運動 ↗韓国民主化の歩み:1980年代 ↗光州民主化運動の記録と「世界の記憶」 ↗韓国憲法65条:弾劾 ↗1987-10-29韓国憲法77条:戒厳と解除 ↗1987-10-29朴槿恵大統領の弾劾審判:2017年決定 ↗2017-03-10憲法裁判所ニュースレター:2024年後半 ↗尹錫悦大統領の弾劾審判:2025年決定 ↗2025-04-04ろうそく・太極旗集会と世代についての同時期の考察 ↗2017尹錫悦大統領の弾劾:主要判例と戒厳解除の経緯 ↗2025-04-04韓国憲法:公布・施行と大統領選挙 ↗1987-10-293・15不正選挙の指令と実施方法 ↗4月25日の大学教授団による抗議 ↗5・18民主化運動の展開 ↗6・10民主抗争 ↗朴鍾哲と6月民主抗争の記録 ↗2024憲ナ8の決定文と主要な判断 ↗2025-04-042026ド6500、逮捕妨害などの確定判決 ↗2026-07-09雪の中で夜を過ごしたキセス・デモ隊 ↗2025-01-05尹錫悦への二度目の逮捕令状執行 ↗2025-01-15ソウル西部地方法院1・19暴動事件白書 ↗2025-12-232026ド999、法院侵入などの確定判決 ↗2026-04-30法院暴動の復旧費を請求する民事訴訟 ↗2026-08-272025コ合129、内乱首魁などの一審判決 ↗2026-02-192026年10月の内乱控訴審の進行 ↗2026-10-062025年1月20日国会法制司法委員会会議録 ↗2025-01-20大法院の実際の判決文2026ド999 ↗2026-04-30控訴審判決文2025ノ2439 ↗2025-12-292016年11月26日、ソウル光化門での集会。Jjw撮影。
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